メジャーリーグに挑戦し、ロジャーズに移籍した、令和の怪物・佐々木郎希(ささき ろうき)選手。
プロ初勝利を挙げた際も、ウィニングボールを両親に渡したいと語るほど家族思いの優しい選手ですよね。
今回は、家族思いの佐々木郎希選手が、どんな家庭で育ったのか、既に亡くなられている父親の死因や、野球のコーチだったのか、仕事は葬儀屋だったのか調べてみました。
佐々木郎希の家族構成は5人!両親(父親・母親)と兄弟2人
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令和の怪物とも呼ばれた、佐々木郎希(ささき ろうき)選手。
そんな、佐々木郎希選手は5人家族の次男として誕生しました。
両親である父親と母親、そして兄が1人、弟が1人います。
- 父 :佐々木 功太さん
- 母 :佐々木 陽子さん
- 兄 :佐々木 琉希さん
(3歳年上) - 本人:佐々木 郎希さん
- 弟 :佐々木 怜希さん
(4歳年下)
佐々木郎希選手は、3人兄弟の真ん中っこなんですね!
佐々木郎希さんの父親である功太さんは、
2011年に東日本大震災で亡くなっている
ことが分かっています。
父の功太さんは、享年37歳
とのことで、当時、佐々木郎希選手は、まだたったの9歳、小学校3年生でした。
幼い息子たちを置いて旅立つには、早すぎる年齢でした。
佐々木郎希選手は、物心ついた頃に、父親を亡くしてしまったということになりますね。
その後は、母親である佐々木陽子さんが、女手一つで息子たちを育てあげました。
佐々木郎希の父親の職業(仕事)は何?葬儀屋って本当?
日刊ゲンダイDIGITAL
早くに亡くなった佐々木郎希選手の父親は、一体どんな人だったのでしょうか?
佐々木郎希の父親の仕事(職業)は葬儀屋?
佐々木郎希選手の父・功太さんの職業は
葬儀屋だった
ことが分かっています。
そのことに関しては、佐々木郎希選手の兄・琉希さんが父への感謝を述べたメッセージにも記載があります。
岩手日報の記事の中では、
- 津波が、葬儀屋店に勤めていた父を襲ったこと
- 祖父母も行方不明になったこと
が語られています。
当時の心境について、佐々木琉希さんは、
信じられない。
「無」というか、空っぽになった感じだった。
と語りました。
岩手日報
この情報からも、父親の職業は葬儀店だった
と考えてよさそうです。
他にも、地元の人たちが佐々木郎希選手の父親・功太さんについて、
人生の節目に寄り添う仕事をする、人情あふれる働き者
と話していることからも、葬儀屋でお仕事をしていたと思われますし、祖父母も一緒に行方不明になったことから、もしかすると家族で葬儀屋を営んでいたのかもしれません。
亡くなった人を送り出し、悲しむ家族たちがきちんとお別れできるように誠心誠意対応されていたのではないでしょうか。
そんな優しい功太さんも、早すぎる死を迎えてしまったことは、とても残念でなりません。
父親を失った佐々木郎希さんと家族は、親族の家や仮設住宅で生活をしていたということです。
佐々木郎希の父親の死因は津波!遺体はいつ見つかった?
情熱大陸
佐々木郎希さんの父親である、功太さんの直接的な死因は明らかにされていませんが、
死因は、2011年3月11日に起こった東日本大震災による、津波
だったことは分かっています。
父親の功太さんと祖父母は津波により、
自宅ごと流されてしまった
ということで、すぐに見つけることができなかったといいます。
テレビでも放送されていたとおり、多くの自宅が波にのまれ、建物が津波で流されていく様子から見ても、逃げることは簡単ではなかったことは容易に想像できます。
津波が発生した当時、佐々木さん一家は、祖父母を含む家族7人で暮らしでした。
父と祖父母は自宅で仕事をしていたと考えられ、地震が起きた時も、仕事を置いて家を離れるわけにはいかなかったのかもしれません。
自宅と共に津波で流された父親が見つかったのは、
地震が発生した5日後の3月16日
でした。
当時、佐々木郎希選手は、小学校3年生で、地震が発生した際は、佐々木郎希選手は、岩手県陸前高田市立高田小学校で授業中を受けていました。
そのため、先生たちと一緒に高台へ避難し、命は助かったんですね。
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地震発生後から、父親の行方がわかりませんでしたが、地震から5日後に
功太が見つかった!
と連絡がはいったことで、佐々木郎希選手は、その電話に喜んだといいます。
やっとお父さんに会える!
と感じていたのでしょう。
幼い佐々木郎希選手は、
お父さんが、生きて帰ってくる
と思ったようですが、その喜びはすぐに打ち消されてしまいました。
「父親が見つかった」という言葉の真意を知った際は、ショックで家族とも会話ができない状態になってしまったそうです。
幼い子供からすると、簡単には受け止めきれる現実ではなかったでしょう。
家族の思い出の詰まった自宅も、大好きだった父親も、同時に失った悲しみは計り知れません。
当時のことに対して、佐々木郎希さんは、
当たり前が当たり前じゃないとか。
今あるものが、いつまでもあるわけじゃないとか。
そういうものを思い知らされました。
と語るなど、幼いながらに、現実を受け止めるのに必死だったことが伝わってきますね。
また、佐々木郎希さんの父・功太さんが亡くなった震災の日、一緒に行方不明になった祖父母も亡くなりました。
残念ながら、祖父の亡骸は、震災から15年近くたった現在も、未だに発見されていないそうです。
当たり前のような日常が、一瞬にして崩れてしまう震災は怖いですし、「今ある日常の幸せ」があることが、どれほど幸せなことなのか。
そのことを、改めて心に刻んで生きていこうと考えさせられますね。
佐々木郎希の父は野球のコーチ!息子は将来プロ野球選手と予想してた?
中日新聞
佐々木郎希選手に野球を教えたのは、父親の功太さんでした。
息子の郎希さんの才能を早くから見抜き、指導を行っていた功太さん。
そんな功太さんは、
少年野球のコーチをしていた
というから、野球が本当に好きだったことが分かりますね。
幼い佐々木郎希選手に一から野球のことを教え手ほどきしていたのも、父の功太さんだったんですね。
父・功太さんと付き合いが深かったという岩手・陸前高田市の戸羽太市長は、
功太のやつ、朗希君に真剣に投げていたんですよ
と語っていました。
子供だからといって、手を抜くこともせず真剣に息子の郎希さんに接していたそうです。
父親として息子の才能を見抜いていたからこそ、真剣に向き合い、子供だからと手を抜くような指導は行っていなかったようですね。
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幼い息子の才能にいち早く気づいていた父・功太さんは、周囲の人たちに
朗希はすごい選手になる!
将来はプロになれる!
そんな風に、嬉しそうに語っていたようです。
息子の野球人生を見抜いていたのかもしれませんね。
父の言葉通り、日本でも大活躍した佐々木郎希選手は、メジャーリーグでもドジャーズに入り、メジャーリーガーの大谷翔平選手とチームメイトになったから凄いですよね!
佐々木郎希さんは高身長ですが、父親の功太さんも身長181cmと高身長でした。
体格の良さは父親譲りなんですね!
その他にも、父親の功太さんも、佐々木郎希選手と同じように、
愛されキャラだった
と言われています。
周囲の人たちは、功太さんの人柄について、「有言実行の人」「気さくで行動力のある人」と語るなど、周囲の人との関係も良好だっことが伺えます。
「有言実行の人。
一緒にやろうという仲間作りが上手な人でした。
気さくで行動力があって。
先輩も後輩もみんなが付いていって」と懐かしむ。
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一緒にやろうと気さくに声をかけられるような、素直で思いやりに溢れる人柄だったようです。
また、行動力もあり、先輩・後輩、誰からも愛されるような天真爛漫な方だったのかもしれませんね。
生きていれば、誰よりも佐々木郎希さんが野球をして輝いている姿に、喜びを感じてくれていたのではないでしょうか。
佐々木郎希の兄・琉希が父親代わりに
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佐々木郎希選手には、兄と弟が1人ずついます。
小学校3年生の時に父親を亡くした、佐々木郎希さんの父親代わりを果たしたのは、兄の琉希さんだったといいます。
弟のことを思い、心を鬼にして厳しく育ててくれた
と、後に母親が語っています。
佐々木郎希さんが、負けず嫌いで、一生懸命練習する姿勢を身につけたのも、
兄である琉希さんのアドバイスの賜物だった
といいます。
兄の琉希さんも野球をしており、4番を務めた経験もあります。
父親・功太さんが琉希さんに野球を教えていたように、兄である琉希さんが、弟の郎希さんに父のように野球の指導していたのでしょう。
父親が見抜いた弟の才能を、
ここで腐らせるわけにはいかない!
と感じていたのかもしれません。
父親が亡くなった時、兄・琉希さんもまた幼かったはずです。
多感な時期にも関わらず、家族にできることを必死に努めてきたのかもしれませんね。
そんな兄2人の背中を見て育った、末っ子の弟・怜希さんも野球をしているそうです。
父を亡くしてからも、家族の絆は野球を通して、強く深く繋がっている
ということですね!
とても素敵な兄弟を持つ佐々木郎希選手のメジャーリーグでの活躍も、これからとても楽しみです!